Entranced

心を解き放て

ギターを始めたこと、進学したこと、複雑さのこと

自粛期間がわりと長くなっている。できることを増やそうとギターを始めた。初め、初心者用のアコースティックギター(1万円ほどの安いやつ)を買おうと家族に軽く話題を振ってみたら「形から入るな」と馬鹿にされた。確かにうちのクローゼットの中に、埃をかぶったエレキギターが二本眠っているのだ。Amazonの出荷は遅いようだし、だからと言って楽器屋に買いに行くことも今は褒められたことじゃない。仕方ないのでそこから一本とって弾き始めた。

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今は肌荒れがひどくて、そしてその市販薬がピック代わりになっている

チューニングとは何かすら理解していなかったので、スマートフォンYouTubeを再生しながら、一から練習している。はっきり言って、適当にでも弾いている時間がすごく楽しくて、始めて良かったと思った。ザッピングするように、あの曲やこの曲を思いつくままに弾いてみるのがいい。いくつかのコードを覚えてビートルズの『ヒア・カムズ・ザ・サン』を弾こうと思ったら、これはアルペジオが大事だとかで、試しに一つ覚えのストロークで弾いてみたら何の曲かわからなくなった。いや、それでも、こんな短期間でこんな楽しくなるものなのだね…。以前は気にも留めなかったのに、ライブ動画なんかをみると指元ばかりに目がいくようになって、不思議な気持ちでいる。

今年から4年制の専門学校に進学することになった。けれどそれも始まらずにいる(高校を出て2年間あまり外に出ない生活をしていたので、実態はそれほど変わってない)。一度オリエンテーションに出向いたことを除いて、他は映像授業だ。僕はどんな過程で今の学校を選択したのか、うまく話せない。忘れてしまうことも多い。相変わらず、計画性なしに、体調に振り回されながら、最後には「これでよかった。こうしたかった」と思い込み続けているんだと思う。始まって1月ちょっと経って、なんとなく今のオンライン授業に慣れてきたり、学校の思想の嫌な点とかが目につくようになってきた。はぐれものなので、専門学校の社会に、仕事現場にあまりに最適化されすぎているところが苦手だ。肌感でそれを感じるたびに、犬のようにくぅーんと根をあげてしまう。それでも、確かにここでなきゃやれないことがあるから奨学金を借りてまで選んだのだし、絶対辞めないぞと父やアルバイト先の元先輩と約束したのだ。この先そういうことが過ぎっても、それを思い出してきっと思いとどまる。父は様々な援助をくれるし、先輩にしたってわざわざ食事に誘ってくれてその言葉を投げてくれたのだ。そういう思いを無駄にはできない。

 

今でこそ映像授業が本格化されたけど、少し前までは2日に1回とかだった。アルバイトも休みになってずいぶんになるので、睡眠薬が切れてしまったのに、病院に行くのをやめてみた。毎日寝付けなくて苦しいけれど、全ては自然な眠りに向かっていくと思っているし、こういうチャレンジじみたものは今くらいしかできないのだ。あまりに冴えてしまってどうにもならない時は、深夜にリビングに行って本を読んだり、飽きたら静かにギターを弾く。朝起きれたなら、東から入ってくる日が暖かい和室に移動して、朝からギターを弾いた。

こんな日を続けながら、こう言った毎日の単純さが僕の中で眩しく、美しく思えてならない。実際はなんだか自律神経がおかしくなっていて、夜になると全身が痒くなったり、深夜にばか食いしてしまったりするけれど、それも「まあこんなものだよな」と思えるくらいの余裕がある。身体の中で起こることも、頭の中で思うことも、全て僕によるものだ。睡眠薬や、抗うつ薬を抜いてここまで心地よくなったことはない。僕がめちゃくちゃになってしまっても、社会は止まっているし、みんなもきっとそんなものだ、という思いがどこかにあるんだと思う。あまりにセンセーショナルすぎるので下手にTwitterなんかでは呟けないけれど、こんな日が続いて欲しいと思う。感染症なんてなくって、誰も不幸せにならなくって、かつ僕がこうすることを多面的に許されるとして、僕はそんな毎日を愛することができるのかわからない。ただ、今は悲しさやさみしさの中に、異常な心地よさがあるのだ。

別に、意識的に悲しいニュースや政治的なツイートを避けているわけじゃない。どちらかというと僕は毎日チェックしているし、Evernoteにクリップしたり、毎日の日記の中で織り交ぜるようなことを積極的にしている。眠れない時に読む本は、小説よりも様々な社会や政治の話が織り交ざった本がいい(そのほうが眠気が早くくる)。社会が一体となって、みんながみんな同じ感染症のことを軸に、日常や政治や文化や社会のシステムのことを話しているのをみて、僕はこんなこと初めてだと思う。これほどのことが僕の体験の中にあるとしたら、2011の東日本大震災の頃だけれど、社会がどうだとかそういう記憶は一切ない。地震が起きたのはレクリエーションの時間で校庭に出る直前の下駄箱だったな、とか、テレビコマーシャルのレパートリーがあまりに貧弱だったな、とか。今はいろんなことが分かってしまうようになって、きっと残る記憶も少なくないんだろう。社会はただひたすらに複雑で、僕らの営みは限りなくちっぽけなものだ。誰かの怒りも、あきらめのため息も、同じように限りなくちっぽけだ。僕はニュースを見たり本を読んだりしながら、その複雑さについて考えている。そして、僕がとるべき距離感について考えている。

 

1998年インド・ニューデリーでの国際児童図書評議会で、1年ほど前に退位された美智子さまのご講演があり、そのなかの言葉を時々思い出す。

そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係のおいても。

『橋をかける 子供時代の読書の思い出』

僕はこの、複雑さに耐えて生きていくというスタンスに心が震えて、出会った時は涙が込み上げてきた。今でも悲しい時はその言葉ばかりを考える。そのご講演での内容は書籍化されていて、たしか、亡くなった祖母が読んでいたような気がする。僕は今、祖母に会って話がしたい。おばあちゃんなら、今の社会を、今の僕を見て、どんな言葉をかけるだろう。生きていたとしても、今は自粛期間だからFaceTimeとかになるんだろうか。

今日映像授業を受けていたら、僕の住む愛知県の緊急事態宣言解除が検討されると言ったニュースが入ってきた。14日ってもう明日じゃん。がーん。早期解除されて、個人的に嬉しいこともきっとあるのだけど、今はただたださびしい気持ちがつのってしまうな。一月弱ほったらかしていたひげを剃って、僕はそんなことをうじうじと思ってしまう。